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東京地方裁判所 昭和57年(行ウ)151号 判決

原告 澤知恵 外三名

被告 江戸川区立小岩小学校長 江戸川区 東京都

主文

一  原告澤知恵及び原告澤正恵の被告江戸川区立小岩小学校長に対する訴えをいずれも却下する。

二  原告らの被告江戸川区及び被告東京都に対する各請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告江戸川区立小岩小学校長が、昭和五七年度の原告澤知恵及び原告澤正恵の各指導要録の出欠の記載において、同原告らが同年六月一三日に欠席したとした趣旨の記載を取り消す。

2  被告江戸川区及び東京都は連帯して、各原告に対し各金一〇万円及びこれに対する昭和五七年一〇月二九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告らの負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

(被告ら)

1 原告らの請求をいずれも棄却する。

2 訴訟費用は原告らの負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告澤知恵及び原告澤正恵は、昭和五七年六月当時、江戸川区立小岩小学校にそれぞれ第六学年児童及び第四学年児童として在籍していたものであり、原告澤正彦はその父、原告澤ヨンはその母である。

(二) 被告江戸川区立小岩小学校長(以下「被告校長」という。)は、同校の校務を司るもので、所属職員を監督する義務を有し(学校教育法二八条三項)、その義務の一環として在籍児童につき各年度毎に指導要録を作成する義務を有し(同法施行規則一二条の三第一項)、その記載事項の中には、授業への出席状況の一つとして欠席日数を記入しなければならないことになつている。

(三) 被告校長は、被告江戸川区の公務員である。

(四) 被告東京都は、市町村立学校職員給与負担法一条により区立小学校の校長の給料その他の費用を負担する者である。

2  欠席の記載

被告校長は、昭和五八年三月、昭和五七年度の原告澤知恵及び原告澤正恵(以下「原告児童ら」という。)の各指導要録の出欠の記録に、原告児童らが昭和五七年六月一三日(日曜日)に欠席したとする趣旨の記載(以下「本件欠席記載」という。)をした。

3  本件欠席記載の処分性

現行法上指導要録は、「児童生徒の指導の過程及び結果の要約」という指導のための資料としての性格のほかに「児童生徒の学籍に関する外部に対する証明原簿」という外部証明のための公簿的性格を有している。そして、指導要録のみは保存期間を二〇年とされて(学校教育法施行規則一五条二項)いる。

このため、指導要録は、児童生徒がその学校を卒業した後も相当長期間にわたり進学(内申書と称される調査書の記載内容となり選抜資料ともなる。)あるいは就職の際に外部証明原簿として多く利用され、また、家庭裁判所の審判や捜査照会の際にも資料として利用されることが少なくないなど、児童生徒の将来における人生の決定、進路・処遇の判定に看過しえない影響を与えるものである。ちなみに、今日の日本の学校・企業などが、その選択・採用の際、その子どもの行状を判定する資料として、性格、行動の記録と並んで出欠の記録にも注目し、しかもその際「病欠」よりも「事故欠」を重視し、更にその事故欠の「理由」(指導要録の出欠記録の備考欄に記載される。)に関心をもち、理由の如何によつてはそれがたとえ一日であつてもマイナスの評価をするのが現実であることが看過されてはならない。被告らは、調査書の出欠の記録において欠席日数が一日増えたとしても合否判定が左右されることはないかのごとく主張しているが、教育現場の実態を知らない皮相な論である。また、子どもらが公立中学校に進学した場合でも、入学後指導要録の抄本が送付されることになつているところ、その際の出欠の記録は、単に指導のための資料としてだけではなくその中学校における当該生徒の評価にも影響を及ぼすことがあることも無視しえない。

以上のとおり、原告児童らにつき作成された指導要録の出欠の記録における本件欠席記載は、原告児童らの法律上保護された利益を現在においてはもとより将来にわたつても侵害するものであることが明らかであるから、同原告らは宗教教育の自由という人権に根ざす法律上の利益をもつて、その取消しを訴求できると解すべきである。

4  本件欠席記載に至るまでの経緯

(一) 本件欠席記載の原因

本件欠席記載は、原告児童らが小岩小学校において昭和五七年六月一三日(日曜日)の午前中に実施されたいわゆる日曜参観授業(以下「本件授業」という。)に出席しなかつたことに基づくものである(抗弁に記載のとおり)。

(二) 小岩小学校における日曜参観授業と原告らの対応

原告児童らは、昭和五四年一〇月米国の小学校から小岩小学校に第三学年及び第一学年として編入したが、昭和五五年の六月一五日(日曜日)に原告らは初めて日曜日の授業参観に直面することとなつた。そこで、原告澤正彦は、自らが厳格に守つていると同じように当日も子どもらを先ず教会学校に通わせることによつて宗教教育を施そうと考え、教会学校に通う小岩小学校及び東小岩小学校(同校でもそのころ日曜参観授業が予定されていた。)の児童の父母らに対しても、子どもらを教会学校に出席させるように呼びかけるとともに、学校に対しては原告児童らの担任教諭らに各々連絡帳を通じて子どもらを教会学校へ出席させたい意向を伝え、理解を求めた。その結果、原告両親及び同教会員の一人は子どもらをそれぞれ教会学校に出席させ、その後遅刻して登校させ日曜参観授業を受けさせた。

翌昭和五六年は、小岩小学校ではいずれも日曜日である六月七日に運動会、同月二一日に父母参観授業が行われたが、原告両親は、運動会についてはこれが子どもらにより前々から準備されて行われること、集団で行動する必要性の高いこと、特に教会員でない家庭の子どもの立場等を考え、いわば妥協的に教会学校を午前八時から(定められた時刻より一時間繰り上げ)始めることとしたが、日曜参観授業については、キリスト教徒の家庭でない子どものために教会学校における宗教教育の機会が全く失われることがないよう次善の策として当日の教会学校を二回実施(第一回は始業時刻を繰り上げて、日曜参観授業と時間的に競合しないようにして実施)した。この間原告両親は、教会学校への出席を父母らに呼びかけるとともに、被告校長に対し、書面にて後述と同旨の具体的な三つの要望をした。

昭和五七年に至り、本件授業が実施されることとなつたが、今回は前年までと異なり、参観授業時間が短かかつたため、定刻どおり教会学校へ出席し、後に遅刻して学校へ行つてもほとんど授業を受けられないことから、原告両親は、原告児童らの各担任教諭宛に次のような内容の書簡を送り、原告児童らを来る六月一三日には教会学校の宗教行事に参加させるため右授業に出席できない旨を通知するとともに、学校側に「〈1〉公立学校は日曜日に正規の授業をしてはならない。〈2〉日曜日授業をあえて行う場合、あらかじめ父母、子どもにこれを任意のものであることを伝え、出欠をとるべきでない。〈3〉日曜日に公的授業を行い、月曜日を代休とすることは憲法、教育基本法によつて保障されている宗教教育の自由との関連で、公立学校として超えてはならない枠を超えるものである。」との要請をした。

しかし、被告校長は、これに何らの応答も処置もしないまま、本件授業を実施し、同年七月末、原告児童らの通知表に同日が欠席日数として数えられ、被告校長は、昭和五八年三月に原告児童らの指導要録に本件欠席記載をしたものである。

(三) 原告児童らが本件授業に出席しなかつた理由

(1) 原告らの立場

原告澤正彦は、日本基督教団(日本キリスト教団ともいう。)小岩教会の主任担任教師(いわゆる牧師)であり、原告澤ヨンは、同教会の担任教師(いわゆる副牧師)であつて、日曜日の礼拝式の執行その他牧師としての職務に従事しているものであるが、その職務として、子どもたちのための礼拝と信仰教育のため教会学校を設け、日曜日の午前中に子どもたちのための礼拝式及びキリスト教の教理、道徳などの学習指導を実施している。

原告児童らは、右教会学校の生徒であり、日曜日の午前中は右教会学校の定めるところによりその礼拝などの宗教行事に出席する義務を負い、原告両親らも前記教団の定めにより教会に属する者としてその子どもを教会学校に出席させる義務を負つている。

(2) 日曜日のキリスト教における意義(重要性)

ア キリスト教における集会及び日曜礼拝の重要性

キリスト教の特質の一つは、それが教会という信徒の集団を形作つている点にある。ここにいう教会とは、単に教会員として登録された者の総数であるのみではなく、集められ、一個所に会している形態においてその存在を明示するものである。これは他宗教におけるように随時信徒たちが礼拝に赴くのとは基本的に相違している。

礼拝の対象たる神は、時間空間を超越しているものであるが、一定の時、一定の場所に信徒が参集し、内面的信仰を外面に表して礼拝を行うことも不可欠であり(この種礼拝を公的礼拝と称している。)、集会の場所として通常教会堂を各教会ごとに専有し、その時間として日曜日の午前を確保するのが全世界を通じてのキリスト教各派(一部例外はあるものの)の定めである。

原告らの所属する日本基督教団は、プロテスタントに属するが、プロテスタント教会においては、教会堂の中に礼拝の対象物ないしそれを象徴する物体を置かないため、礼拝を礼拝たらしめる要件は信徒の集合そのものである。したがつて、一定時に集まることができなかつた者が別の時に教会堂に行つて礼拝を捧げようとしても、公的礼拝と等しい意味のものを再現することは不可能である。

日曜日の公的礼拝は、これが教会内の個人に対する全体であるのみならず、万人に対して開かれたものであると同時に、外部に対する主張でもある。そのうえ、これには教育的要素が含まれており、とりわけ年少者に対しては、今日、教会学校ないし日曜学校と称せられる教会内機関によつて、信仰の継承者を育成するための教理伝達、キリスト教的心性のかん養がなされている。年少者の礼拝は、成人の公的礼拝と分離される場合もあるが、年少者をして将来公的礼拝に参加せしむることを目的とするため、年少者の礼拝も公的礼拝に準じて重要視すべきものとされている。

イ 日曜日がキリスト教において重要な日(聖日)として遵守される由来

ユダヤ教が拠つて立つ旧約聖書の最も重要な教えを集約したものといえるいわゆるモーゼの十戒の中に「安息日をおぼえてこれを聖とすべし」とする戒めがあり、その日には何の仕事もしてはならないとされていた。これは、週を定めてその第七日を安息日として聖別するもので、その淵源は紀元前一三世紀に遡るといわれている。

これに対して最初期のキリスト教徒が週の第一日を重んじ、同日を礼拝の日とすることになつたのは、キリスト教の信仰にとつてイエス・キリストの復活が最も中心的なことであつたところ、その復活が週の第一日の朝であつたことに基づく。もつとも、最初期の教会は毎日集まつて礼拝をしていたものであるが、週の第一日を「主の日」と呼び、特別に礼拝の日として確立し、その礼拝の中で信徒たちが主の到来と主の恵みの現実性を把握していた。

日曜日(太陽の日)とは、キリスト教と関係なく、すでに一、二世紀ころからローマで用いられていた慣行であるが、ローマ皇帝は、西歴三一三年にキリスト教を公認し、続いて日曜日を休日とするように命じた(同三二一年三月三日付け、同年七月三日付けの指令書)。これはキリスト教的政策であつたとみるべきであり、ここに古代教会においても日曜日がキリスト教の聖日、礼拝と安息の日として確立した。

その後、ローマ・カトリツク教会において主の日の遵守は教会の制定する教会法に基づくとの見解にほぼ統一され、また、その後ルター派及び改革派のプロテスタント教会においても主の日遵守が強調された。更にこれらキリスト教の影響のもとで、スコツトランドにおいて西歴一五七九年に日曜遵守が法制化されたのを始め、次々と欧米諸国において日曜休日の規定が制定され、今日世界のほとんどすべての国家が七曜制と日曜休日制を採用するに至つているが、とりわけ、ボン基本法では、日曜日等は、霊的向上の日として法律上保護されると規定されていることに注目すべきである。

日本において日曜日を休日と定めたのは、明治九年三月一二日の太政官布告であつたが、それより早く明治五年三月一〇日、教会創立のときに横浜公会の公会定規で安息日規定が定められ、明治七年の日本基督公会条例、同二三年の日本基督教会憲法において更にこれを強化し、同旨の規定が現日本基督教会憲法三条、現日本基督教団数憲法八条に継承されている。

(3) 以上のとおり、日曜日を主の日として遵守するキリスト教徒として、原告両親は、原告児童らを教会学校に出席させ、原告児童らは、教会学校に出席したために本件授業に出席できなかつたものである。

5  信教の自由としての日曜日礼拝

信教の自由の保障は、近代人権思想の展開において中心的な役割を果たしてきたものであり、人権のなかの人権とされている。そして、憲法二〇条一項にも「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と定められている。

今日憲法の保障する信教の自由は、内心における信仰の自由、信仰を外部に発表し宣伝する自由、信仰目的で礼拝し、集会し、結社する自由を含むものである。

キリスト教においては、前記のとおり、日曜日は主の日と定められていて、キリスト教徒が礼拝を守るべき日であることがキリスト教の本質的要求であり、この日曜日礼拝は、キリスト教の当初から行われていて、二千年の長きにわたつて継承され、いまや全世界の圧倒的多数の教会において教会の法として確立し、キリストを主要宗教の一つとする国家においては、国法において日曜日を休日として日曜日礼拝の自由を保障しているのである。

そこで、キリスト教においては、特定の時の要素を不可欠の内容とする日曜日礼拝もまた保障されなければならない信教の自由に含まれるといわなければならず、したがつて、憲法二〇条一項の保障する信教の自由のなかにはキリスト教徒の日曜日礼拝の自由を含むものと解さなければならないのである。

6  本件欠席記載の違法性

(一) 信教の自由としての宗教教育の自由とその侵害(憲法二〇条一項違反)

(1) 信教の自由には、信仰告白の自由や礼拝・祈祷等の宗教的儀式の自由、教会・教団等の宗教結社の自由、宣伝布教の自由の他にこれらと並んで宗教教育の自由も存するというべきである。そして、この宗教教育の自由は、すぐれて親の子に対する宗教教育の自由としてとらえられているが、子どももまた、親をはじめとする社会から宗教教育を受ける自由を権利として享有しているということができる。

このような内容を有する信教の自由を保障するとは、公権力によつて、これらの自由が制限されることなく、また、それらを理由として、どのような不利益も与えられることがないことを意味している。これをふえんすると、内心における信仰の自由にとどまらず、信仰に基づいて、国法上義務づけられた行為その他の行為を行うことを拒否した場合にも(その法義務が実質的にみて是非遵守されなければならないほど重大な公共的利益に仕えるものでなかつたり、あるいは、それによつて他人の人権を侵害する結果を招来するものでないかぎり)、これに対し何らかの不利益を課することは信教の自由の侵害そのものであり、そのような法義務を課すること自体が違憲となるというべきである。そして、人が一方でその信仰に従うならば一定の不利益を受けざるをえなくなり、他方で法義務を容認するならば自己の信教の自由の行使を放棄せざるをえなくなるというような選択を余儀なくされることは、それ自体憲法上の信教の自由を危殆に陥れるものである。

被告校長が原告児童らに対してなした日曜日を本件授業日とする学校運営は、原告子どもらに対して同授業に対する出席を法的に強制し、義務づけたことを意味している。そして、原告両親は、親としてその信ずるキリスト教信仰に従い、日曜日午前中に開かれている礼拝と信仰教育のための教会学校に原告児童らを出席させた結果、原告児童らをして本件授業日に欠席したという不利益を受けることを余儀なくされ、もつて、親の子に対する宗教教育を受けさせる自由を侵害された。また、原告児童らは、自らのキリスト教信仰に従い、右教会学校に出席したところ、本件授業日に欠席したという不利益を受けもつて、宗教教育を受ける自由を侵害された。

よつて、教育行政当局である被告校長が、原告児童らに対して日曜日を授業日と決定したこと及びこれによつて原告児童らに不利益な本件欠席記載をしたことは、憲法二〇条一項に違反する違法がある。

(2) 違憲審査基準

なお、信教の自由も内心のみならず、宗教的活動を伴う以上、他の人権、公共の福祉と衝突することがあるので、以下においては、国家行為(本件においては教育行政当局である被告校長が行つた行為)と宗教的活動との衝突の場合の違憲審査基準について検討し、原告らの主張が正当であることをふえんする。

ア まず第一に、国家行為の目的については、それが本来その機関の正当な職責としているものでなければならないことは当然として、それが公共の利益との間に単に合理的関連性があるというのでは足りず、憲法上最も重要な自由権である個人の信教の自由を侵害してもなお行わなければならないほどの高度の必要性があるかどうかを検討すべきである。

イ 第二、右国家行為による侵害の性質及び程度が問題となる。この点については、次の二つのテストに分けて考察することができる。

(ア) 国家行為により個人が自己の信ずる宗教的義務に反しなければならなくなつた場合に侵害されるであろう宗教上の利益の重要性のテストである。すなわち、それが当該宗教にとつて根幹的な意義を有する事柄であるか、間接的かつ極めて微弱的な意味しか有しないかである。

(イ) 逆に、宗教上の義務に従つた故に国家行為の命ずるところに従わなかつた場合に生じる不利益の種類・程度のテストである。すなわち、刑事制裁や行政上の不利益を科せられる場合であるか、あるいは社会的経済的関係において事実上の不利益を受けるに過ぎない場合であるかである。

ウ 第三に、当該宗教的行為自体が他の一般国民の法益に与える影響も考慮すべきである。すなわち当該宗教的行為が何ら他人の権利を侵害しない場合には、これを国家行為との関係でも保護する必要性が高いといえる。

エ 第四に、国家行為が高度の必要性に基づくものでも、更にそれが同じ目的を達成するために代替性のない唯一の手段方法であるか、もしくは容易には他の手段方法が見い出しえない場合であるかが検討されなければならない。そして、右のテストは、より軽度の侵害に止めることが可能であつたかどうか、また、一律に執行された国家行為は当該信教の自由の侵害を受ける国民に対して適用除外が可能であつたかどうかも含まれるというべきである。

(3) 本件についての検討

ア 第一に、教育行政当局が父母参観のために正規の授業時間外に特別の授業を実施することは正当な公共業務に属するといえる。そして、このような特別授業の実施が休日に行われなければならない必要性については、父母の多くが給与生活者である都会地においては、父母が休日以外に休みを取ることは困難であることからやむをえないものと考えられる。しかし、日曜日に父母参観を実施して子どもに授業日としてその出席を義務づけることは、それ自体重大な公共的利益につかえるものでないことは一見して明白であるばかりか、教育条理上も十分な根拠と意義があるかどうか極めて疑わしいものといわざるをえない。

イ 第二に、本件における国家行為の宗教の自由に対する侵害の程度を検討するに、まず、キリスト教徒が日曜日ごとに教会に集まつて礼拝し、子どもらに宗教教育を施すことのキリスト教信仰の体系における重要性、換言すれば、これらの宗教的活動を妨げることがキリスト教徒の宗教の自由の内実をいかに侵害するかは、すべてキリスト教の次元の価値尺度で判断すべきである。そして、キリスト教徒の右宗教的活動は、前記のとおり教会法として確立し、長い歴史を持つものであり、原告らの所属する日本基督教団の教憲においても第一次的な信徒の義務とされているところである。

他方で原告らが選択したように日曜日の授業日の出席義務に違反して、子どもらが教会学校に出席し(させ)た場合に受ける不利益は、当該授業を受けられなかつたばかりか、右義務違反として被告校長より欠席として取り扱われるという行政上の処分まで加わる。

以上の点からすれば、本件授業の実施による原告らの不利益は、単に宗教教育の機会に対する微小な制限に過ぎないものとすることはできず、したがつて、たとえば表現の自由についてその機会を保障する場合と同視して、時、場所、方法等を制限するに過ぎないと判断することはできないのである。

ウ 第三に、原告らの日曜日における教会学校の実施及びこれへの参加は、何ら他の国民の利益を侵害する性質のものでないことは明らかである。

エ 第四に、公教育が父母の参観のために父母が出席しやすい休日に特別の授業を行なうことがやむをえないとしても、何が何でも日曜日の午前中に実施されなければならず、他に何らの代替的手段方法がないのかどうか検討するに、まず原告ら教会学校関係者の立場からみれば、一週間のうちただ一日の日曜日に残された宗教教育の機会が奪われることになり、たとえ小学校側にとつては年一回のことであつても、教会学校には複数の世俗学校に通う子どもたちが参加している(したがつて、日曜参観授業も複数回生じる。)という事実に照らせば、教会学校が公教育側の日曜日授業の度に時間を繰り上げる等の代替的措置の実施には困難がある。

これに対し、本件のような父母参観授業は、〈1〉同じ日曜日であつてもその午後に実施すれば原告らの宗教教育との衝突を避けることができ、あるいは国民の祝日のうちの一つ(学校教育法施行規則第四七条も、この日を授業日とすることを可能とする。)を選択するという代替的手段が容易に考えられるものである(これを選択した場合に、日曜日の午前中に比して特に顕著な学校当局あるいは他の一般父母、児童に対する迷惑、障害は考えることができない。)。〈2〉仮に日曜日の午前中に参観授業を行なうとしても、右は短時間であつて、親の教育に対する関心に応えるいわば見せるための授業であるから、これを正規のカリキユラムから切り放し、任意のものとして出席義務を課さないという方法も考えられる(このような場合には、欠席者の受ける不利益は、当該授業を受けられないという不利益に止められることになろう。)。〈3〉仮に日曜日の午前中の参観授業につき本件のごとく出席義務を課するとしても、原告らのごとく、日曜日に宗教教育を実施している父母の子どもに対しては、江戸川区教育委員会の定める指導要録の出欠の記入要領にあるイないしエのうち、エの「その他の場合」に当たるとして、例外的に出席義務を課し得ない場合として出席すべき日から除外する措置をとることも考えられる(これにより少なくとも出席義務違反としての欠席処分及び欠席を理由とする同級生らの隠然たる迫害から免れえたといえる。)。

ちなみに、右のような宗教教育のための欠席にとどまらずその他生徒が一定の合理的理由にもとづいて欠席した場合、公教育法制とその運用において、これを欠席扱いしないことは十分に可能であり、現実にも多くのそのような取扱いがなされている。すなわち、右にいう合理的な理由がある場合にはその他校長が出席しなくてもよいと認めた日数として「出席停止、忌引等の日数」に準じてこれを右「授業日数」から控除することにより、「出席しなければならない日数」には含まれないものとすることができ、したがつて欠席扱いをしないことが現行法上も十分に可能となるのである。

オ 以上のほか、本件においては前記のとおり、原告らは事前に本件授業日の決定と欠席扱いの違法性について被告校長らに対し同措置の包蔵する憲法上の問題点に関し、見解、要望を十分に伝達していたのであり、そのような事態のなかで同措置がなされたことが考慮されなければならない。

以上のような考察の結果、被告校長のなした本件欠席記載は、前記のとおり憲法二〇条一項に違反する違法なものと結論できるのである。

(二) 公教育の宗教的中立性の原則とその違反(教育基本法九条違反)

教育基本法九条が公教育と宗教との関係について、一項で「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。」とし、二項で「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」と定めることによつて、公教育の宗教的中立性の原則を宣明したのは、憲法二〇条の信教の自由の保障を公教育の場においても貫徹しようとしたものであることはいうまでもない。

この公教育の宗教的中立性の原則を宣明した教育基本法九条は、もとより宗教の教育的価値について消極的な態度に立つものではなく、むしろ宗教に教育的価値を認め、「人格の完成をめざす教育」(同法一条)において尊重すべきことを要求しているものである。ただ、公教育の場においては特定の宗教のための宗教教育をすることを禁じ、もつて公教育法制が全体として信教の自由が保障されるよう十分に配慮すべきことを要求しているのである。

このように、公立学校においては、特定の宗教のための宗教教育は厳しく禁じられているが、学校の外で行われている宗教教育に対してもまで禁圧的、否定的態度をとることを要求されているのではない。むしろ、公立学校は学校の外で行われている宗教教育に関しては寛容でなければならず、これを教育上尊重しなければならないのである。

そのうえ、公教育の宗教的中立性の原則は、憲法上の政教分離原則と結びつくとき、公教育の宗教教育に対する教育上の特別配慮義務が要請されることになると解すべきである。すなわち、宗教の至高性・絶対性を尊重し、これを重視する国家は、それゆえに自ら宗教を行うべきではないとして国家と宗教をきびしく分離しているのであるから、国家が尊重、重視する宗教教育は、公教育主体が自らこれを実施することは許されず、公教育の外において親がその宗教的信条に従つて行うという形になる。換言すれば、政教分離原則にあつては、公教育は世俗教育としての知識教育等を担当し、宗教教育は厳密にその対象から取り除かれ、これを親が公教育の外で公教育にあてられた時間を控除したわずかな時間を利用して行うことになる。このようにして、公教育の外において公教育の合間のわずかな時間に行われることになつた親の宗教教育に対して、公教育は、公教育法制上最大限の尊重をし、やむにやまれぬ重大な公益上の必要性に基づくものでないかぎり、これを侵害してはならない義務を負うことになつたというべきである。よつて、公立学校教育の法制とその運用において、親の宗教教育の自由を尊重するために特別な配慮をなすことが公立学校にとつても教育法的義務となつているというべきである。

そして、右の教育上の特別配慮義務は、日曜日を休日として既に法的に定めているわが国において、公教育が、本来休業日である日曜日を授業日とした場合、日曜日午前中に開かれている礼拝と宗教教育のための教会学校に出席したために授業に欠席した児童に対しては、公教育法制とその運用において、その欠席が合理的な理由に基づくものとして欠席扱いをしないように配慮する義務として現れるというべきである。これはひとつには、在学関係において通常予想される範囲を越えて児童に特別の負担をもたらす特別な学校行事は、そもそも自由参加とすべきであり、日曜日を休業日とする通常の取扱いに反して、これを例外的に授業日とする場合には、児童に特別の負担をもたらすものであるから出席を強制してはならないというべきであるが、もうひとつには、前記公教育の宗教教育に対する特別の配慮が要請されているもとでは、日曜日に宗教教育を受けるため教会学校に出席する児童について日曜日を授業日とすることは二重の意味で児童に特別の負担を課するものであるから、更に自由参加を建前とすべきであり、すくなくとも同授業に欠席した児童を欠席扱いしないように配慮すべきであるということになるのである。

のみならず、親の宗教教育の自由として、教育基本法九条等に基づき、公立学校で行われる宗教教育にはその子を参加させない権利(すなわち欠席させる権利)が存することは明らかであるというべきところ、これは同時に親は学校の外で行われる宗教教育に子どもを参加させるために、子どもに特別の負担を課する学校行事には子どもを参加させない権利を含んでいるというべきである。

以上のとおり、被告校長が原告児童らに対して日曜日を授業日として学校運営をし、本件欠席記載をなしたことは、原告両親の宗教教育の自由を侵害し、そのコロラリーとしての欠席させる自由を奪うものであり、また、公教育の宗教教育に対する特別配慮義務として原告らに保障されている欠席扱いを受けない利益を侵害したものであるから、これらの自由、利益を保障した教育基本法九条、憲法二〇条に違反している違法があることは明らかである。

(三) 教育基本法七条違反

教育基本法七条は「家庭教育及び・・・社会において行われる教育は・・・奨励されなければならない。」と定めている。この規定は、権利としての家庭教育及び社会教育の保障を図ろうとするものである。

被告校長が、本件授業を実施し、本件欠席記載をなしたことは、原告らが日曜日午前中に開かれている礼拝と宗教教育のための教会学校に出席することを妨げ、原告らの右家庭教育及び社会教育を行おうとする権利を侵害した違法があるというべきである。

7  原告児童らの授業を受ける権利の侵害

(一) 被告校長は、昭和五七年六月一四日を本件授業のためのいわゆる代休として休業日としたため、原告児童らは同日の授業を受けることができなかつた。

(二) 原告児童らが本件授業に出席しなかつたのは、前記のとおり宗教教育の自由に基づく正当な理由によるものであつたから、原告児童らは、代休日とされた同日に本件授業に代わり本件授業に見合う補充授業を受ける権利を有する。

(三) よつて、原告児童らが右授業を受けることができなかつたことは、厚告児童らに対する差別であり、教育基本法三条、憲法一四条一項に違反するとともに、憲法二六条によつて有する教育を受ける権利を侵害する違法な措置である。

8  損害

(一) 以上6、7記載のとおり、被告校長のした本件授業の実施と代休日の指定及び本件欠席記載は、原告らに対する不法行為を構成するものであり、これらと因果関係のある損害は次のとおりである。

(二) 原告両親の精神的苦痛

原告両親は、キリスト教徒、特に牧師及び副牧師として原告児童らへの信仰の承継と宗教教育を重視してきたところ、公教育の日曜日の授業が、親と子どもの宗教教育を侵害するものであることを深く憂慮し、予め校長や担任教諭らに対し委曲を尽して説明し、宗教教育を理由とする原告児童らの日曜日授業の欠席を「欠席扱いしない」ように意を尽し、礼を尽して申し入れてきたにもかかわらず、被告校長によりこれらをすべて無視されて本件授業を実施されたうえ、原告児童らの指導要録の出欠の記録に欠席と記載されたことを知り、子を持つ親としてまた信仰者として筆舌に尽しがたい精神的苦痛を受けた。

(三) 原告児童らの精神的苦痛

原告児童らは、本件授業の実施により、両親も強く希求し本人らもまた希望している教会学校への出席義務と、本件授業への出席の強制との二つの義務の間にはさまれ、その選択に小さな胸を痛め、また、子ども仲間からは「ずる休み」の眼でみられ(現に原告澤正恵は、その面前でそう言われた。)、その純真な心に将来にもわたる深い刻印を残すことになつた。また、原告児童らは、その通知表に「欠席」と記載されているのを見て重ねて大きなシヨツクを受けた。のみならず、原告児童らは、合理的理由に基づく欠席により受けられなかつた本件授業内容に見合う補充授業を受ける機会が与えられなかつたことにより看過しえない損害を被つた。

(三) 原告らの以上の各精神的苦痛を慰謝するための慰謝料は、各原告についてそれぞれ金一〇万円を下るものではない。

9  結論

よつて、原告児童らは、被告校長に対し、本件欠席記載の取消しを求めるとともに、原告らはそれぞれ不法行為による損害賠償として、被告江戸川区に対して国家賠償法一条一項に基づき、被告東京都に対しては同法三条一項に基づき、連帯して各金一〇万円及びこれに対する不法行為の後である昭和五七年一〇月二九日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1(一)ないし(四)の各事実は認める。

2  同2の事実は認める。

3  同3は争う。本件欠席記載の処分性についての被告校長の主張は、後記三のとおりである。

4  同4(一)の事実は認める。(二)のうち、原告児童らが昭和五四年一〇月に米国の小学校から小岩小学校に第三学年及び第一学年として編入したこと、昭和五五年六月一五日の日曜日授業参観に原告澤知恵が遅刻して出席したこと(なお、原告澤正恵は通常どおり出席であつた。)、昭和五六年六月に原告ら主張のとおり運動会と父母参観授業が実施されたこと(なお、父母参観授業には原告児童らはいずれも欠席している。)、原告両親が原告児童らが小岩小学校に編入して以来、日曜日の午前中に授業を行うことには宗教教育の自由との関係において問題がある旨の主張をしてきており、昭和五七年度の本件授業に対しては、原告ら主張の内容の書簡が各担任教諭に送られてきたこと、これらに対し、被告校長及び各担任数諭が原告両親の主張を容れる措置をとらなかつたこと並びに被告校長が本件授業を実施し、昭和五七年七月末の原告児童らの通知表に同年六月一三日を欠席とする欠席日数の記載があつたこと及び被告校長が本件欠席記載をしたことは、いずれも認め、その余の事実は不知。

5  同6の主張は争う。

6  同7(一)の事実は認め、(二)、(三)の主張は争う。

7  同8は争う。

三  本件欠席記載の処分性についての被告校長の主張

指導要録の記載事項のうち、出欠の記録は、原則として学年末に校長が出席簿に基づいて、一学年間の児童の出欠状況を記載する欄であつて、その記載の目的は、もつはら児童の進級、進学又は転学後に、その児童生徒を担任するであろう教師たちのために、各児童生徒の出欠状況についての情報を提供し、児童生徒に対する教師の理解と適切な指導に役立たせようとすることにある。そうだとすると、被告校長の指導要録の出欠の記載行為は、児童やその保護者の権利義務に直接法律上の影響を及ぼすことのない、行政機関の内部関係における単なる事実行為にすぎず、抗告訴訟の対象となる行政処分にあたらないというべきである。

また、進学に際して本件欠席記載が原告らに対して何らかの不利益になることはない。すなわち、東京都内の区立の小学校の児童が小学校を卒業した後は、私立の中学校に進学しない限り、その小学校の所在する学区域の公立中学校に進学し、その場合は入学者の選抜はない。また、私立中学校へ進学する場合は、入学者選抜のための資料として小学校の校長から調査書(内申書)が送付され、概ね調査書の中に出欠状況の記載をすることになるが、小岩小学校における日曜授業参観は一年に一回であり、これによつてその欠席日数が一日増えたとしても、それによって私立中学校の入学選抜の合否の判定が左右される蓋然性は全くないといつてよいのである。よつて、被告校長が本件授業に出席しなかつた原告児童らを欠席としたことによつて、原告らは何ら不利益を受けていないというべきである。

四  被告校長の抗弁及び被告らの主張

1  日曜授業実施の法令上の根拠

(一) 学校教育法施行規則四七条では、公立小学校における日曜日休業制を定める(一項二号)とともに、同条一項但書において「特別の必要がある場合は」日曜日を授業日とすることができる旨規定されている。

(二) 地方教育行政組織及び運営に関する法律三三条一項は、「教育委員会は、法令又は条例に違反しない限度において、その所管に属する学校……の管理運営に関する基本的事項について必要な教育委員会規則を定めるものとする。」と規定しており、日曜日を授業日とし、授業日を休業日とすることも、右学校の管理運営に関する基本的事項に当たると解されている。そこで、これに基づき江戸川区教育委員会は江戸川区立学校の管理運営に関する規則を制定し、同規則三条二項で「休日に授業を行い、又は授業日に休業しようとするときは、校長は、委員会の許可を受けなければならない。ただし、運動会……その他の年間行事計画に基づく恒常的行事の実施のため、休業日に授業を行い、又は授業日に休業しようとする場合は、あらかじめ届け出ることをもつて足りるものとする。」と規定している。

2  本件授業の実施の適法性

(一) 日曜授業参観の必要性

(1) 授業参観の意義

授業参観は、父母に学校の実際の授業を公開するものであるが、これによつて父母は、自分の子が教師や他の児童生徒とのかかわり合いの中でどんな反応を示し、行動をとるのか、その実態を知ることができ、このことは、父母が子どもを理解するうえできわめて大切なことであり、授業参観の際に父母が家庭ではうかがうことのできない子どもの側面を発見することも少なくないのである。

また、父母は、実際に授業を見学することによつて、学校の指導方針、教師の指導方法、授業内容等に対する理解を深めることができ、また、学校側は、アンケートや懇談会などの方法で、授業参観を体験したうえでの父母の学校に対する意見、要望、批判等を聞き、これを授業その他学校教育に反映させようとしている。

このように授業参観は、父母に学校教育への参加の機会を与え、父母と学校との信頼、連帯関係を強め、教育活動を円滑にするなどの教育効果を高める上で欠くことのできない意義を有するものである。

(2) 日曜日授業の妥当性

昭和三〇年代中頃までの授業参観は、もつぱら平日に行われていたが、勤務の都合その他の理由から授業参観に父親が参加することはほとんどなく、母親のみが授業参観に参加する家庭がほとんどであつた。そのため、数多くの母親から学校側に対して授業参観に父親も参加できる日曜日に授業参観を実施してもらいたいとの要望が寄せられた。

そこで、日曜日に父親が授業参観に参加できる可能性があるかどうかを検討するに、小岩小学校の通学区域は、その大部分が第一種住居専門地域及び住居地域に指定されており、個人住宅と小規模な商店によつて構成されている住宅地であり、昭和五七年度の同校の在籍児童の保護者の職業は、会社員と公務員が合計六六パーセントを占め、また、自家営業者が二九パーセントに達していることから明らかなように、同校の児童の家庭は、大多数がいわゆる勤労所帯に属している。そのため、日曜日以外の平日に授業参観を実施した場合には、勤務を有する父母の大多数の参加が困難になり、日曜日なら参加が可能となるのである(本件授業参観に父母の一方又は両親ともに参加した家庭数は全校児童家庭数の九〇パーセント以上であつた。)。

なお、本件授業の当時の小岩小学校の在籍児童数は、七七六名であり、風疹のため出席停止中の児童七名を除き当日出席しなかつた児童は一〇名であり、その内訳は、病気、怪我のためが六名、法事のためが一名、結婚式のためが一名、そして、原告児童らが二名であつた(その他墓参のため遅刻した児童及び法事のため早退した児童が各一名いた。)。

(二) 小岩小学校における日曜授業参観は、昭和三九年から毎年実施されている恒常的行事である。

(三) 被告校長は、昭和五七年度につき六月一三日を小岩小学校における日曜授業参観のための授業日(翌一四日を休業日)と決定し、その旨をあらかじめ江戸川区教育委員会に届け出て、本件授業を実施した。

3  原告児童らは、いずれも右六月一三日の授業日に欠席した(請求原因4で原告らが自認するとおりである。)。

4  本件欠席記載の適法性

(一) 小学校の校長は、その学校に在学する児童の出席の状況を明らかにしなければならず(学校教育法施行令一九条)、右出席の状況を管理するために出席簿を作成しなければならない(同法施行規則一二条の四)とされており、更に児童の指導要録(同法施行令三一条に規定する児童の学習及び健康の状況を記録した書類の原本)を作成しなければならず(同法施行規則一二条の三第一項)、右指導要録には、出席簿の記載に基づいて児童の「出欠の記録」を記入すべきものとされている。

(二) 東京都教育委員会は、地方教育行政の組織及び運営に関する法律四八条一項、二項一号・二号の規定に基づいて、東京都内の区市町村の教育委員会に対して、指導要録の様式、記入要領及び取扱要領についての基準を示し、東京都内の公立小学校の指導要録の様式等の統一を図つているところ、これを受けて江戸川区教育委員会は、同法二三条一号四号五号及び九号の規定に基づいて、東京都教育委員会の示した右基準に従つた指導要録の様式、記入要領及び取扱要領を決定している。そして、右指導要録の出欠の記録の記入要領によれば、児童が授業日に学校に出席しない場合は「欠席」として取り扱うのを原則としているが、ただ、次のアないしエに該当する場合には、例外的に欠席以外の取扱いをすることになつている。

ア 出席停止

イ 学年中の一部が臨時休業した場合

ウ 忌引の場合

エ その他の場合

次の(ア)ないし(ウ)などで、校長が出席しなくてもよいと認めた日数

(ア) 非常変災等児童若しくは保護者の責任に帰することのできない事由で欠席した場合

(イ) 伝染病の流行等でその予病上保護者が児童を出席させなかつた場合

(ウ) 進学等の受験のために欠席した場合

5  よつて、原告児童らが本件授業に欠席したのは、右の例外的取扱いをすべきいずれにも該当しないので、原則に基づき原告児童らの各指導要録の記載においては欠席として取り扱つたもので、被告校長の右措置は適法であり、これが違法であるとの原告らの主張は失当というべきである。

五  抗弁に対する認否等

1  抗弁のうち、被告校長が、昭和五七年六月一三日を日曜授業参観のための授業日(翌一四日を休業日)と決定し本件授業を実施したこと及び原告児童らが、本件授業に欠席した事実を認める。

2  本件欠席記載が適法であるとの主張は争う。原告らの主張の詳細は、請求原因4ないし6に記載のとおりである。

第三証拠〈省略〉

理由

一  請求原因1(原告らと被告校長の地位関係)(一)ないし(三)の事実及び同2(本件欠席記載の存在)の事実は、当事者間に争いがない。

二  本件欠席記載の処分性について

小学校の校長は、その学校に在学する児童の出席の状況を明らかにしなければならず(学校教育法施行令一九条)、右出席の状況を管理するため出席簿を作成しなければならない(同法施行規則一二条の四)。更に、右校長は、児童の指導要録をも作成しなければならず(同規則一二条の三第一項)、その指導要録には、学年末に出席簿の記載に基づいて児童の出欠の記録を記入するものとされている。しかし、弁論の全趣旨によれば、右指導要録に出欠の記録をする目的及びその機能は、もつぱらその後に児童を担任する教師らのためにその児童の出欠状況についての情報を提供するためのものであることが認められる。そうすると、本件欠席記載は単なる事実行為であるにとどまり、これにより原告子どもらの権利義務に直接法律上の影響を及ぼすことのないものであるといわざるをえない。

原告らは、指導要録には外部証明のための原始資料(原簿)となる公簿的性格があり、これによつて原告児童らは本件欠席記載により不利益を被るところ、これは法律上保護された利益の侵害に当たると主張するが、進学、就職その他の社会的取り扱いの上で本件欠席記載により、原告児童らの法律上の地位が左右されるとか不利益にさらされることについては何ら立証がない。かえつて、証人早川昌秀の証言によれば、本件欠席記載が原告児童らの中学校進学に不利益を及ぼすような事態が生じることはないものと認められ、現に原告知恵は昭和五八年四月一日江戸川区立小岩第一中学校に進学しており(この事実は原告澤正彦本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によつて明らかである。)、原告正恵も昭和六〇年四月に中学校へ支障なく進学している(この事実は、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第三八号証及び前記争いがない原告正恵の昭和五七年当時の学年から推認できる。)。そして、本件欠席の記載が原告児童らのその後の学校及び社会における法律上、事実上の地位に具体的な不利益を及ぼすということも到底考えられないところである。

よつて、本件欠席記載は、抗告訴訟の対象となりうる行政処分には当たらないというべきであり、その取消しを求める訴えは不適法である。

三  本件欠席記載の違法性について

1  本件欠席記載の原因等

本件欠席記載は、原告児童らが小岩小学校において昭和五七年六月一三日の日曜日に実施された本件授業に出席しなかつたことに基づくことは、当事者間に争いがない。

成立に争いのない甲第二、第三号証及び原告澤正彦本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、原告澤正彦は、日本基督教団小岩教会の牧師、原告澤ヨンは、同教会の副牧師であり、原告児童らは、同教会に設けられている子どもたちのための礼拝と信仰教育のための教会学校の生徒であること、右キリスト教においては、日曜日午前中の礼拝は、信仰上特に重要な意義を有しており、右教会学校もまた毎日曜日の午前中に行われていること、したがつて、原告子どもらは、本件授業が実施された昭和五七年六月一三日の日曜日には右教会学校に出席し、そのために本件授業に出席できなかつたこと、本件授業は、午前八時半から同一〇時二〇分まで実施されたところ、通常、教会学校は、午前九時から約一時間一〇分程度行われており、成人の日曜日礼拝は、その後の午前一〇時半から行われているが、本件授業の当日の教会学校は、本件授業にも出席したいと望む者があることを考慮して、特別に午前八時から繰り上げて実施されたことの各事実が認められる。

2  原告らは、被告校長が日曜日を授業日と指定して本件授業を実施し、これに出席しなかつた原告児童らを欠席扱いし、本件欠席記載をなしたことが原告らに対する不法行為を構成すると主張するので、まず、本件授業と本件欠席記載の根拠について検討する。

(一)  本件授業実施までの手続

(1) 公立小学校における授業日については、学校教育法施行規則四七条に規定されており、原則として、国民の祝日、日曜日、夏期休暇等教育委員会が決める日以外の日を授業日とする旨定めている。しかし、同条但書において、特別の必要がある場合には、国民の祝日、日曜日にも授業ができる旨が定められている。したがつて、公立学校において日曜日に授業を行うことが全面的に禁止されているものでないことは明らかであるが、日曜日等に授業を行うには、「特別の必要がある場合」でなければならないから、本件授業が適法であるためにはこの特別の必要がある場合に当たることが主張、立証されなければならない。

(2) 本件授業は、いわゆる日曜授業参観のための授業日として被告校長が定めたものであることは当事者間に争いがない。授業参観の意義と目的については、証人早川昌秀、同島津忍の各証言及び弁論の全趣旨によれば、抗弁2(一)(1)の事実が認められ、これを整理して要約すると、第一に児童の授業の実際の場面を父母に参観してもらうこと、第二に参観授業の終了後に担任の教師と父母との間で、日頃の学習指導のみならず、生活指導あるいは家庭での生活の模様など児童の教育に関する諸般の問題について、懇談し、意見を交換する場を持つこと、第三に校長が学校経営(児童の教育を含む。)の方針ないし考え方について父母に説明し、理解してもらう(これは、右第一及び第二の行事が終了した後に行われることが多い。)ことを目的とするものであり、今日の学校教育上、父母の学校教育に対する理解を深め、また、児童に対する教育効果を高める上で、十分な意義を有する教育活動であること、その中でも右第二の点については、母親だけでなく父親と懇談し、父親の意見をも聴取することが学校側にとつて特に貴重なものであることが認められる。

そこで、この授業参観を日曜日に行う必要性について考察するのに、まず、授業参観は、児童の父母が実際の授業を見ることを必須の条件としていることから、これを行う以上、現実に児童の父母がより多く参観に来ることができるような曜日を選定しなければならないといえる。そして、証人高石伸子の証言によれば、小岩小学校では一学期に一回の割合で平日に父母の授業参観日を設けているが、その場合には、児童の七、八割の母親が参観するものの、父親の参観はほとんどないことが認められ、また、証人早川昌秀の証言及び弁論の全趣旨によれば、小岩小学校の通学地域の特性は、住宅地を主体としたものであり、会社員、公務員等のいわゆる勤労者世帯が多くを占めていることが認められる。

そうすると、少なくとも会社員及び公務員等のいわゆるサラリーマン家庭については日曜日、国民の祝日等の休日には勤務を要しない可能性が高いから、日曜日は、この多数を占める家庭について父母双方あるいは少くとも平日参観ができない父親も参観に来ることができる可能性が大きい日ということになる。のみならず、証人高石伸子の証言によれば、小岩小学校の児童の家庭では、母親まで勤務先を持ち、平日参観が困難な家庭も現れてきており、父親の授業参観を可能にするのと同様の理由で、母親についても休日の授業参観の機会を設ける必要が感じられるような事態が生じてきたことが認められる。このような理由によつて、本件授業参観を日曜日に設定したことは、平日参観では達せられない授業参観の目的を達成するために必要かつ適切な措置であつたということができる。ちなみに、証人早川昌秀の証言及びこれにより真正に成立したと認められる乙第一四号証によれば、本件授業に父母双方又は一方が参加した家庭数は、全校生徒家庭の九三パーセントに及んでいることが認められ、このことからも日曜日を授業参観の日として選定したことの妥当性は裏付けられている。

以上のとおりであるから、授業参観のため日曜日に授業を行うことは、特別の必要がある場合に該当すると解されるところ、成立に争いがない乙第一号証、丙第四号証、証人島津忍、同早川昌秀の各証言及び弁論の全趣旨によれば、小岩小学校では、本件授業を昭和五七年六月一三日の日曜日に実施し、その代り翌一四日の月曜日を休業日とすることを年間行事計画において定め、これを江戸川区教育委員会に予め届け出ていたことが認められるから、本件授業を日曜日に行つたことは、法令上の根拠(学校教育法施行規則四七条、東京都区市町村立学校の管理運営の基準に関する規則三条二項但書、江戸川区立学校の管理運営に関する規則三条二項但書)に基づいているということができる。

(二)  本件欠席記載の根拠

右(一)にみたとおり、学校教育法施行規則四七条に基づき日曜日を授業日とすることができる場合に当たり、かつ、被告校長が昭和五七年六月一三日の日曜日をその授業日と適法に指定した以上、同日は正規の授業日であることにかわりないことになるから、抗弁4記載のとおり(なお江戸川区教育委員会の定める指導要録の記入要領については、成立に争いのない乙第一五号証によりこれを認める。)、被告校長が、児童らについて本件欠席記載をしたことに手続上違法なところはない。

(三)  本件欠席記載の実体的違法性の有無

小岩小学校において授業参観を日曜日に実施することは、右(一)にみたとおり、公教育として学校教育上十分な意義を有するものであり、かつ、法的な根拠に基づいているものであるから、これを実施するか否か、実施するとして午前、午後のいかなる時間帯に行うかは被告校長の学校管理運営上の裁量権の範囲内であるということができる。したがつて、本件授業の実施とこれに出席しなかつた原告児童らを欠席扱いにしたことが原告らに対して不法行為を構成する違法があるとすれば、それは、被告校長が右の裁量権の範囲を逸脱し、濫用した場合に限られることになる。そこで、この点について項を改めて検討する。

3  被告校長の裁量行為について

(一)  本件欠席記載の効果

原告らは、原告子どもらが本件欠席記載を受けたこと自体が原告らの利益を侵害していると主張する。そして同欠席記載が出席に対する消極的な評価であるという面では原告児童らにとつて精神的な負担となり、その意味でならこれを不利益な措置あるいは扱いということができないではない。そして、学校教育法施行規則一五条二項によれば、本件欠席記載がなされた指導要録の保存期間は二〇年と定められているから、少くともこの間は右のような記載が記録されたままになる。しかし、右欠席記載から、右に述べた以外にさらに法律上あるいは社会生活上の処遇において何らかの不利益な効果が発生するとは認められないことは前記二で検討したとおりである。

(二)  欠席の回避に伴う原告らの不利益

(1) それにしても、本件欠席記載が原告児童らにとつて好ましくない事実であることは、右(一)のとおりであるが、原告らにおいて同記載を回避するためには、原告児童らを本件授業に出席させるしか方法がないことになる。しかし、原告らが原告児童らを本件授業に出席させるならば、前記1で認定した事実関係のもとでは、原告児童らは日本基督教団小岩教会における教会学校には(その開始時間を大巾に繰り上げる等の特別な措置がとられないかぎり)出席できなくなることは明らかである。

そこで、原告らは、本件授業に出席するか同日の教会学校に出席するかという二者択一の形で本件授業を実施することは、原告らがキリスト教徒として有する信仰の自由を侵すことになり、不法行為に当たると主張する。

(2) 一般に、宗教教団がその宗教的活動として宗教教育の場を設け、集会(本件の教会学校もここにいう「集会」に含める。)をもつことは憲法に保障された自由であり、そのこと自体は国民の自由として公教育上も尊重されるべきことはいうまでもない。しかし、公教育をし、これを受けさせることもまた憲法が国家及び国民に対して要請するところであり、具体的には学校教育法等の関係法規によつて定められたところに従つて、被告校長その他の教育実務の運営に当たる機関において実施することが要求されている行為であることもまた明らかである。そして、右の公教育をいかなる日時に実施すべきかについては、前記2(一)(2)でみたとおり学校教育法施行規則四七条とこれを受けた都、区の各規則で定めるところである。その結果、公教育が実施される日時とある宗教教団が信仰上の集会を行う日時とが重複し、競合する場合が生じることは、ひとり日曜日のみでなく、その他の曜日についても起こりうるものである(例えば、教義によつては土曜日を特別に宗教上重要な日とし、あるいは金曜日をそのような日と考え、また、曜日によつてではなく特定の暦日をそのような日として扱う宗教があることは公知の事実である。)。それゆえ、ある宗教教団がその教義に従つて集会を行う日時が公教育の実施される日時と重なる場合には、当該宗教教団に所属する信仰者は、そのいずれに出席するかの選択をその都度迫られることになるが、これをしも公教育の実施が信者の宗教行為の自由を制約するというのであれば、そのような制約はひとり本件授業にとどまらず、随所に起こるものということができる。

しかし、宗教行為に参加する児童について公教育の授業日に出席することを免除する(欠席として扱うことをしない。)ということでは、宗教、宗派ごとに右の重複・競合の日数が異なるところから、結果的に、宗教上の理由によつて個々の児童の授業日数に差異を生じることを容認することになつて、公教育の宗教的中立性を保つ上で好ましいことではないのみならず、当該児童の公教育上の成果をそれだけ阻害し(もつとも、学業の点のみであれば、後日補習で補えないものではない。)、そのうえさらに、公教育が集団的教育として挙げるはずの成果をも損なうことにならざるをえず、公教育が失うところは少なくないものがあるといえる。

このような見地から、学校教育法施行規則四七条等の前掲関係法規は、公立小学校の休業日に授業を行い授業日に休業しようとするときの手続を定めるに当たつても、右宗教上の集会と抵触するような振替えを特に例外的に禁止するような規定は設けず、振替えについての公教育上の必要性の判断を「特別の必要がある場合」との要件の下に当該学校長の裁量に委ねたものと解されるのである。

したがつて、公教育上の特別の必要性がある授業日の振替えの範囲内では、宗教教団の集会と抵触することになつたとしても、法はこれを合理的根拠に基づくやむをえない制約として容認しているものと解すべきである。このように、国民の自由権といつても、それが内心にとどまるものではなく外形的行為となつて現れる以上、法が許容する合理的根拠に基づく一定の制約を受けざるをえないことについては信仰の自由も例外となるものではないと解される。

以上の意味において、かつその限りにおいて、原告らの教会学校における集会や信仰上の活動が前記(一)のような態様での不利益を被るという形で制肘される結果になつたとしても、そのゆえに本件授業が原告らに対して違憲、違法となるものではなく、原告らの被る右の不利益は原告らにおいて受忍すべき範囲内にあるものと言わざるをえないのである。

(3) 原告らは、教育基本法九条を根拠に、公教育の担当機関は宗教教育に対する特別の配慮をすべき義務があり、宗教教育に参加する者に対して公教育上の授業に出席を強制する結果となるような授業日の振替えをしてはならず、宗教教育を受けるために授業に出席しなかつた者に対して少なくとも欠席の扱いをとるべきではないと主張する。

なるほど、教育基本法九条一項は、宗教に関する寛容の態度と並べて宗教の社会生活における地位を教育上尊重すべきことを規定しているが、その趣旨とするところは、宗教が人間性を培う上で重要な役割を果す契機の一つであるにもかかわらず、その重要性の認識がともすれば日常生活の利害の追求の中で稀薄化し、なおざりにされる恐れがあることに鑑みて、人格の完成をめざし国家及び社会の形成者としての資質を育成しようとする教育の目的(教育基本法一条参照)的見地から、社会生活における宗教の地位の尊重について配慮を促したものと理解される。したがつて、右規定は宗教的活動の自由に教育に優先する地位を与えたり、その価値に順序づけをしようとするものではなく、政治的教養(その涵養に必要な活動を含む)の尊重(同法八条一項)をうたうのと同様の趣旨に出たものにほかならない。それゆえ、この規定から、日曜日の宗教教育が本件授業の実施に優先して尊重されなければならないものと根拠づける原告らの主張は採用できないものと言わなければならない。まして公教育の担当機関が、児童の出席の要否を決めるために、各宗教活動の教義上の重要性を判断して、これに価値の順序づけを与え、公教育に対する優先の度合を測るというようなことは公教育に要請される宗教的中立性(同法九条二項)に抵触することにもなりかねない。したがつて、原告らキリスト教の信仰者が日曜日には公教育に対する出席義務から解放されて自由に教会学校に出席する(させる)ことができるという利益が憲法上保護されるべき程度も、先に述べた公教育上の特別の必要がある場合に優先するものではなく、本件欠席記載を違法ならしめるものではないというべきである。

そして、前記判示のとおり、日曜日についても、一定の要件のもとでは、これを授業日とすることができるのであり、これが適法に授業日となつた以上、欠席は欠席として記録することが校長の職務上の義務であり、出席を要しない日として取り扱う法令上の根拠は存在しない。

なお、江戸川区教育委員会では指導要録の出欠の記録の記入要領を決定しており、これによれば、正規の授業日に出席しない児童についても一定の場合(前掲乙第一五号証によれば、その詳細は抗弁4(二)に記載のとおりであることが認められる。)には、例外的に欠席と扱われないことがあるのは原告指摘のとおりである。しかし、右のような例外的なケースは、いずれも定型的におよそ児童に対して学校に出席することを要求するのが社会的にみて不可能もしくは不相当な場合であつて、日曜日の宗教教育に出席することは右に掲げた社会的事由とは異質なものである。したがつて、右例外的扱いを本件において原告児童らに対して拡張して適用しないからといつて、それが違法となる理由はないというべきである。

(三)  代替措置の可能性と裁量の範囲

本件授業の目的は、授業参観を実施するためのものであるところ、原告らは、右目的を達成するためには、他の日時を選択することも可能であり、この点で被告校長の裁量には違法があると主張する。しかし、授業参観を平日に実施することで補えないことは、前記2(一)で考察の結果から明らかであり、他の日曜日をもつて代えることも、なんら原告ら主張の前記の信仰の自由に対する制肘を解消することにならないから、これが有効な代替措置でないことは明らかである。

授業参観を日曜日の午後に実施することを原告らは代案として主張するが、およそ学校の授業が午前八時半から九時の間に開始されることは公知の事実であり、児童の心身の状態からみて一般的に午前に学習することが午後のそれに比べ優れているし(この点は証人島津忍の証言によつて認められる。)、また生徒及び父母の一般的な日曜日の過し方から考えても、午後に授業参観が行われることは、自由な時間が午前中に入ることになつて、正規の授業の効果が挙げられなくなり、教育の効率が阻害される可能性が強く、平日と同様な授業を参観させようとする本件授業実施の目的に副わない結果となる恐れが多分にある。また、午前中に授業を参観して、午後を父母と教師、校長との懇談や説明の場に当てる(前記2(一)(2)で認定した授業参観の目的のうち第二、第三に関する行事に相当する。)という授業参観の通例(この点は証人島津忍の証言によつて認められる。)に鑑みても、平常どおり午前中に授業参観を行うことは強い合理性があると認められる。

最後に国民の祝日に実施することについて検討するに、まず、およそ国民の祝日については国民の祝日に関する法律によりそれぞれの意義が付与されており、公教育の立場からいうとその意義に沿うものでない限り(例えば体育の日に運動会を実施するように)、国民の祝日をあえて授業日とすることは妥当性の点で疑問を生じる余地があることは否めない。しかも、新学年が開始して児童の学校生活もほぼ安定したといえる六月に授業参観日を設定することは、前記2(一)(2)で認定した授業参観の三つの目的に照らして適切と考えられるところ、同月には国民の祝日は存在しないから、本件授業の日を六月一三日としたことになんら裁量権の逸脱はないものと言うべきである。

4  本件授業の実施の相当性と本件欠席記載の適法性

以上本件授業の実施に伴い、原告らに一定の事実上の不利益が生ずることを認められるものの、本件授業は、法令上の根拠を有し、その実施の目的も正当であるところ、実際に当該年度に実施された日曜日授業の回数(弁論の全趣旨によれば、小岩小学校における昭和五七年度の日曜日授業参観は本件授業のみであつたことが認められる。)及び授業参観の目的を達成するためにとりうる代替措置の可能性の程度からみても、本件授業の実施に相当性が欠けるところはなく、被告校長の裁量権の行使に逸脱はない。

そして、日曜日に出席しなかつた児童に対して指導要録に欠席記載をとるべきことも前記判示のとおりこれを正当として是認できるから、被告校長が本件授業を実施し、本件欠席記載をしたことは憲法一四条一項、二〇条一項、二六条、教育基本法三条、七条、一九条に違反するものではなく裁量権の逸脱もないから、右所為を不法行為と主張する原告らの請求はいずれも理由がない。

四  原告子どもらの授業を受ける権利の侵害について

請求原因7(一)の事実は、当事者間に争いがない。しかし、すでに判断したとおり本件授業は、法令に基づく適法かつ正規の授業であり、原告児童らがその主張のような理由で欠席したからといつて、当該児童に補充授業をしなければならない法律上の根拠はない。したがつて、原告児童らに本件授業に見合う授業を受ける権利があることを前提とする不法行為の主張も失当である。

五  結論

よつて、原告児童らの被告校長に対する本件欠席記載の取消しを求める訴えは、不適法として却下し、原告らの被告江戸川区及び被告東京都に対する各損害賠償請求は、いずれも理由がないのでこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について、行訴法七条、民訴法八九条、九三条本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 山本和敏 太田幸夫 塚本伊平)

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